2007年7月8日日曜日

国を明るくするコツ

 5月に一時帰国をしてからもうすでに2ヶ月経ちました。日本には酒、しょうゆ、みりん等、すばらしい食文化がありますよね。なので、帰国してから頻繁に料理をしています。両親が共働きで帰宅が遅いため、両親が帰ってきたときにすぐ夕食をとれるようにしておきたいという理由もあり、色んな料理に挑戦しています。今まで作った料理の中からいくつか、またいずれ紹介しようと思っています。

 日本で食べる食べ物は、どれも工夫をしています。他国の料理が雑というわけではないのですが、日本の料理は食材の味や色、形を最大限生かし、それはその食材に対する敬意の表れでないかとふと思うときがあります。僕はいつも「いただきます」を言う時、その料理を作ってくれた人に対するお礼の気持ちと、その食材に対するありがたみの気持ちを込めています。

 日本人は世界の中でも特に食を楽しみ、大切にしていると思います。人間が一番敏感な味覚を持った動物らしいので、理に適った素晴らしい人生の楽しみ方だと思います。和食でも創作料理があったり、洋食、中華等世界の料理を楽しんだり、またそれらを和食と合わせてみたりもします。それがまたおいしいのです。例えば、有名な話で、ナポリタン(ケチャップのスパゲティー)という食べ物は日本人が発明しました。そしてあるテレビ番組でこれをイタリア人に味見をしてもらうと、彼らはそれをおいしいと絶賛していました。イタリア料理ではない日本のイタリア料理がイタリア人にうけるのです。僕はアメリカとメキシコでお寿司を食べたことがありますが、それらはその国の人の好みの味に染まっており、あまりおいしいものではありませんでした。

 日本には本当に良いところが沢山ありますが、もちろん世界中の国に全てが良いという国が無いように、日本にも外国人の目から見てあまり好まれない点があります。1年間メキシコで生活をし、メキシコの生活や価値観に慣れている僕は、今日本の街を歩いていると、今は少し外国人の日本に対する見方が分かるような気がし、新しい日本を発見することができます。長期留学をする利点はここにもあると、僕はいつでも留学を目指す人に言わせていただいています。

 帰国後は授業がなく、基本的には大学には行かないでも良いので、電車に乗ることがありません。しかし先日VISAの申請のため、東京のメキシコ大使館へ行くために、地下鉄に乗りました。電車の中は、どんよりとした雰囲気が充満していました。渋谷や新宿など、人通りがあり娯楽があるところでは人は皆イキイキとするものですが、電車の中での人々の人生に疲れきったような表情を見、とても寂しい気持ちになりました。常に楽しい気持ちでいるということは不可能というのは理解しているつもりですが、誰かがしんどそうな表情でいれば、その場の雰囲気もどんよりし、周囲の方も少なからずそれに影響されてしまいます。メキシコシティーの地下鉄に乗った時は、海外におり、気持ちが浮かれていたからかもしれませんが、日本の地下鉄の電車の中のような雰囲気はありませんでした。そして僕がメキシコシティーに行った時には、もうすでにメキシコ生活も5ヶ月を過ぎようとしていたときなので、あまりメキシコシティーにいても異国にいるという感動は観光客よりは無かったと思います。

 日本人はメキシコ人に比べ平均的に目が細い人が多く、少ししょんぼりした顔に見えてしまうかもしれません。しかし僕は顔のせいにはしたくありません。メキシコ人は人生を常に楽しもうとする人が多いです。それに対し日本人は、比較的人生の中で楽しむ時としんどいが頑張る時を区別する人が多いと思います。人生にはもちろんしんどい時があり、その時は楽しい気持ちにはなかなかなれません。僕も最近辛い事が立て続けに起こりました。将来はもっと辛い事が起こるでしょう。しかしそういう苦境に立たされた時にでも自分を忘れず、他人に悪い影響を与えたくはありません。




 なので僕は、出来るだけ常に目を見開き、車内の広告をじっくり眺めようと思います。

2007年7月7日土曜日

本当の願いは叶わない。

 4月下旬に祖母が亡くなりました。誰も予想していなかった、突然の死で、僕はまだメキシコにいたので通夜、葬儀に出席できず、最後の対面をすることができませんでした。

  誰も予想していなかったというのも、実は去年の8月中頃に祖父の癌が見つかり、すでに余命(最短3ヶ月、最長1年)を告げられていたので、家族は皆祖父を心配していて、祖母の事は、身体は若干弱ってきていたのですが、まず命に別状はないと安心していました。祖母は自分の旦那の癌という悲しい現実に直面し、非常に辛い思いをしていたに違いありません。しかし祖母は骨や関節が弱く、一人で歩く事もままならなかったので、癌に身体を冒されている祖父が祖母の看病をしていました。祖父は自分の会社があるので80歳を過ぎても辞めることができず、癌が見つかってからも働き続け、会社から帰ってくると祖母の看病と、本当に大変だったと思います。もちろん家族は皆助け合うものですが、そこまで屈強に立たされていた祖父の妻を想う気持ちの強さと優しさには、真似をしようとしてもそう簡単に出来るものではありません。

 ある日祖母が祖父にふと「なぁお父さん、一緒に死のや~」と言ったらしいのです。そしてそれからすぐに、本当に祖母が亡くなりました。後で父に聞くと、祖父は妻を亡くした悲しみの反面、「こんな簡単に死ねるんか」と羨む気持ちも少しは持っていたそうです。その頃はもうすでに癌がかなり転移しており、以前に比べて25kg程痩せ細っていました。

 妻を亡くした祖父が5月の始めに癌のカテーテルの手術を受けるというのを両親から聞き、僕は帰国日を早めました。そして祖父が手術を受ける当日に帰国することができ、術後2日目にお見舞いに行きました。その時ひさし振りに再会した祖父と僕は、術後2日目で体力も物凄く消耗しているにもかかわらず、約1時間半話をしました。そしてその2日後、祖父は脳梗塞を併発し、口元を右半身に障害が残り、理解はできるものの話す事がほとんど出来なくなりました。2日前までは普通に人と会話できていたのが、急に人に自分の言いたい事を伝えることができなくなり、本当に不甲斐ない気持ちでいっぱいだっただろうと思います。

 祖父と1時間半話しをした時に初めて祖父の人生を詳しく教えてくれました。祖父は今まで本当に辛い経験をしていました。簡単に紹介しておきます。

 祖父は戦争で、青年時代は戦闘機の部品を作る工場に勤めていました。始めは部品を作る材料なども豊富でしたが、戦争が長く続くにつれ、材料に底がつき、多くの代用品を使うようになったそうです。エンジンを動かすガソリンも少なくなってきていたので、混ぜ物でまかなったそうです。そこですでに祖父はもう日本は負けるという事に気づいていたと言っていました。

 数年そこで働いている内に徴兵され、中国へ行きました。祖父は中国で2度死ぬ寸前の経験をしたと教えてくれました。中国で船に乗っている時、敵軍の攻撃に会い、祖父の乗っていた船は沈没し、そこで1度目の死ぬ思いをしています。その時は間一髪救出されました。そして次の経験は、また船の中での出来事です。友達と昼食を食べようと船上を歩いている途中艦載機がその船に爆弾を落とし、祖父の近くで爆発しました。祖父は奇跡的に助かりましたが、祖父と一緒に歩いていた友達は、祖父が気が付いたときには、船の最上階まで吹っ飛び、亡くなっていたのです。

 終戦が近づいていた時には日本からの支給品は全く届かなくなり、食べ物がなくなった日本の兵隊は、中国で車の整備などをして生計をたてていました。

 そして祖父が帰国した時には、街はボロボロで、祖父は兄弟を沖縄戦線で亡くしていました。祖父は祖父の父と二人、荒れ果てた地を耕しながら生活していました。

 その後祖父は税務署で働くことになり、その後税理士の資格を取り、自分の会計事務所を持つまでになりました。そして自分の手でその事務所を大きくしていきました。

 これは祖父の人生の苦労のほんの一部分です。そこまで苦労した祖父は人の痛みを自分の痛みのように分かる人でした、だから癌でしんどい身体でも妻の看病ができたのではないかと思います。本当に優しい祖父です。

 祖父にはあと数年、元気に生きてほしかったです。僕はずっとこれだけを思っていました。祖父は今までに本当に辛い経験ばかりしてきました。なので、仕事を引退した後は祖母と2人で人生を思う存分楽しんでほしかったのです。しかしその願いは叶いませんでした。

 仕事を引退し、これから人生を楽しもうとした直後に癌が見つかり無理が出来ない身体だということを知り、そして妻を亡くしました。







 今は天国で祖母と二人、楽しく過ごしていることを望みます。この望みだけは本当に叶っていてほしいです。