4月下旬に祖母が亡くなりました。誰も予想していなかった、突然の死で、僕はまだメキシコにいたので通夜、葬儀に出席できず、最後の対面をすることができませんでした。
誰も予想していなかったというのも、実は去年の8月中頃に祖父の癌が見つかり、すでに余命(最短3ヶ月、最長1年)を告げられていたので、家族は皆祖父を心配していて、祖母の事は、身体は若干弱ってきていたのですが、まず命に別状はないと安心していました。祖母は自分の旦那の癌という悲しい現実に直面し、非常に辛い思いをしていたに違いありません。しかし祖母は骨や関節が弱く、一人で歩く事もままならなかったので、癌に身体を冒されている祖父が祖母の看病をしていました。祖父は自分の会社があるので80歳を過ぎても辞めることができず、癌が見つかってからも働き続け、会社から帰ってくると祖母の看病と、本当に大変だったと思います。もちろん家族は皆助け合うものですが、そこまで屈強に立たされていた祖父の妻を想う気持ちの強さと優しさには、真似をしようとしてもそう簡単に出来るものではありません。
ある日祖母が祖父にふと「なぁお父さん、一緒に死のや~」と言ったらしいのです。そしてそれからすぐに、本当に祖母が亡くなりました。後で父に聞くと、祖父は妻を亡くした悲しみの反面、「こんな簡単に死ねるんか」と羨む気持ちも少しは持っていたそうです。その頃はもうすでに癌がかなり転移しており、以前に比べて25kg程痩せ細っていました。
妻を亡くした祖父が5月の始めに癌のカテーテルの手術を受けるというのを両親から聞き、僕は帰国日を早めました。そして祖父が手術を受ける当日に帰国することができ、術後2日目にお見舞いに行きました。その時ひさし振りに再会した祖父と僕は、術後2日目で体力も物凄く消耗しているにもかかわらず、約1時間半話をしました。そしてその2日後、祖父は脳梗塞を併発し、口元を右半身に障害が残り、理解はできるものの話す事がほとんど出来なくなりました。2日前までは普通に人と会話できていたのが、急に人に自分の言いたい事を伝えることができなくなり、本当に不甲斐ない気持ちでいっぱいだっただろうと思います。
祖父と1時間半話しをした時に初めて祖父の人生を詳しく教えてくれました。祖父は今まで本当に辛い経験をしていました。簡単に紹介しておきます。
祖父は戦争で、青年時代は戦闘機の部品を作る工場に勤めていました。始めは部品を作る材料なども豊富でしたが、戦争が長く続くにつれ、材料に底がつき、多くの代用品を使うようになったそうです。エンジンを動かすガソリンも少なくなってきていたので、混ぜ物でまかなったそうです。そこですでに祖父はもう日本は負けるという事に気づいていたと言っていました。
数年そこで働いている内に徴兵され、中国へ行きました。祖父は中国で2度死ぬ寸前の経験をしたと教えてくれました。中国で船に乗っている時、敵軍の攻撃に会い、祖父の乗っていた船は沈没し、そこで1度目の死ぬ思いをしています。その時は間一髪救出されました。そして次の経験は、また船の中での出来事です。友達と昼食を食べようと船上を歩いている途中艦載機がその船に爆弾を落とし、祖父の近くで爆発しました。祖父は奇跡的に助かりましたが、祖父と一緒に歩いていた友達は、祖父が気が付いたときには、船の最上階まで吹っ飛び、亡くなっていたのです。
終戦が近づいていた時には日本からの支給品は全く届かなくなり、食べ物がなくなった日本の兵隊は、中国で車の整備などをして生計をたてていました。
そして祖父が帰国した時には、街はボロボロで、祖父は兄弟を沖縄戦線で亡くしていました。祖父は祖父の父と二人、荒れ果てた地を耕しながら生活していました。
その後祖父は税務署で働くことになり、その後税理士の資格を取り、自分の会計事務所を持つまでになりました。そして自分の手でその事務所を大きくしていきました。
これは祖父の人生の苦労のほんの一部分です。そこまで苦労した祖父は人の痛みを自分の痛みのように分かる人でした、だから癌でしんどい身体でも妻の看病ができたのではないかと思います。本当に優しい祖父です。
祖父にはあと数年、元気に生きてほしかったです。僕はずっとこれだけを思っていました。祖父は今までに本当に辛い経験ばかりしてきました。なので、仕事を引退した後は祖母と2人で人生を思う存分楽しんでほしかったのです。しかしその願いは叶いませんでした。
仕事を引退し、これから人生を楽しもうとした直後に癌が見つかり無理が出来ない身体だということを知り、そして妻を亡くしました。
今は天国で祖母と二人、楽しく過ごしていることを望みます。この望みだけは本当に叶っていてほしいです。
0 件のコメント:
コメントを投稿