2007年4月26日木曜日

「浜省」

パン屋さん: 「今度浜省のライブあってな、今日の朝から嫁さんにチケット予約の電話してもらうよう言うてんねん。でも多分無理やろな。すぐ完売やもん。」
僕: 「そんな浜省てええん?」
パン屋さん: 「オレが唯一CD全部持ってる歌手やな。浜省の曲には深い意味あってな。浜省はずっとロックでアメリカに憧れてて、突然ギター1本持ってアメリカ行ってまうからな。かっこええわ。」

 僕は10歳の頃から和歌山の加太へ鯛釣り(船)に通っています。そして、始めは父と一緒に行っていたのですが、それから数年後、同じ船に乗るパン屋さん(11歳年上)と仲良くして頂き、最近はパン屋さんと釣りに行っています。朝3時にパン屋さんが、仕込みを終わらせて一睡もせず僕の家に迎えに来てくれ、半分以上寝ながら加太へ連れて行ってくれます。そして、パン屋さんは釣り中、釣れる時間はすごい集中力を発揮し、釣れなくなれば船頭さんと話をするか、居眠り(熟睡)するか、「なお~、パン食うか?」と言ってきます。しかしパン屋さんのパンは本当においしいので、その誘いにはいっつも「うん、頂戴。」と、僕は遠慮の知らない子になってしまいます。行きの車の中でもパンをくれ、たまに「今回何かちゃうやろ?何やと思う?」と、パン利きをさせてきます。僕はただの素人なのですが・・・しかし僕は、パン屋さんのパンを頻繁に食べているせいか、段々と味の違いが分かるようになってきています。「今日のヘロバキ(フランスパン)、塩分ちょっと多い?」「この食パン、生クリーム大目にした?」など、えらそうな意見を言い、たまに当たっています。それ位パン屋さんのパンはおいしいです。
 それはともかく、パン屋さんの車の中でいつも流れている曲は、浜田省吾の「I am a father」です。加太へ行く1時間半、この1曲だけがリピートされます。何度もです。そして僕は以前浜田省吾を知らなかったので、なぜ浜省がそれ程好きなのかを聞くと、上記のような会話になりました。パン屋さん曰く「浜省は政治等に対して、今まで批判的な歌が多かったけど、この"I am a father"は、親父の気持ちが入った、すんごい柔らかい曲や。」だそうです。(事実、浜省の曲には、自分の行き方そのものへ懐疑を投げかけたもの、父親の被爆体験、日本や戦争を歌ったものなどが多い。)この曲が流れるのは1日だけでなく、確か1年中ずっとこの曲がパン屋さんの車の中でリピートされていたような気がします。それ程聞くと、僕も浜省が大好きになってしまいました。好きなものについてはとことん掘り下げていかないと気がすまないタイプの僕は、今回、浜省について調べました。浜省に興味のない人も、一度これを読んでみてください。そして共感はせずとも、「本物のミュージシャンやなぁ~」と思って頂ければ幸いです。


<浜田省吾>
 1952年、広島に生まれる。そして11歳の時に、ラジオでビートルズの"Please Please Me"を聞き、音楽の虜となり、姉の誕生日プレゼントのギターを取り上げ、ギターの練習を始める。

 高校時代は野球部を辞め、フォークソング部に入る。学校の生徒会役員になり、学生運動にも多く参加し、ベトナム戦争を進めるアメリカに加担しながら広島平和記念式典に参加した当時の佐藤栄作の行動が矛盾するとして起こった激しい反対運動にも参加する。

 1972年、神奈川大学法学部に入学するが、学生運動が盛んな時期で、大学がよくストライキなどで休校されることが多く、このような大変な時期に親に仕送りしてもらってまで大学に行く意味が無いと感じ、大学を中退する。

 1973年、下宿を引き払う日、下宿先前にあった大学構内で、神奈川大学の派閥と他の大学の派閥との激しい争いが起こる。火炎瓶が飛び交い、構内に多くの死傷者が転がった場面を、浜省は朝まで見た。そして広島へ戻り、仲間とバンド「愛奴」を結成。バンドではドラムを担当し、デパートの屋上や地元のテレビでの地道な活動の結果、次の年には吉田拓郎の全国ツアーのバックバンドを務めるまでになった。

 1975年、浜省はバンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れから、愛奴から脱退する。

 1976年にはアルバム「生まれたところを遠く離れて」、シングル「路地裏の少年」でソロデビュー。矢沢永吉や竹内まりやのコンサートの前座を務めるようにもなる。この頃は予算の都合上、ギター1本で全国を巡演する。レコード店の店頭、スーパーの催し、バーのカウンター・・・歌えるとこではどこでも歌った。

 1979年には日清カップヌードルのCMで書いたシングル「風を感じて」が10万枚を越える売り上げを記録し、82年には初の日本武道館でのコンサートをする。この時浜省は、武道館にお客さんが入るかという心配とプレッシャーに押しつぶされそうになっていたが、結果はチケットが15分で完売の大成功を収めた。

 1983年、当時所属していたホリプロから独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立する。以後、尾崎豊、三浦和良、スピッツなどが所属することになる。

 1986年に発売された2枚組みアルバム「J.BOY」がオリコンアルバムチャートで初の1位を獲得する。(5週連続)1988年の静岡県浜名湖での野外コンサートでは、52000人を動員した。

 1992年、テレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売された「悲しみは雪のように」が200万枚近い売り上げを記録し、初のオリコンシングルチャート1位を獲得する。(10週連続)同時に、過去にリリースされたシングルが次々とチャートインし、浜省ブームが起こる。


 1993年、シングル「アヴェ・マリア/永遠の恋人」をリリース。その印税収入を全て、当時社会問題になりつつあったエイズの治療、研究に寄付した。

 1995年に発売されたシングル「我が心のマリア」のカップリング曲「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブストーリーで、その年に発生した阪神淡路大震災の復興を願い、印税収入を全て寄付する。このシングルは、事務所の後輩であるスピッツらと共に作成。

 1998年には20世紀から21世紀をまたぐツアー「ON THE LOAD 2001」が4年がかりの構成でスタートし、全国127ヶ所196公演を行い、60万人もの動員数を記録する。

 その後も音楽活動を続け、2006年には初の2枚組みベストアルバム「The Best of Shogo Hamada Vol. 1/ Vol. 2」を発売。また同年にツアーON THE LOAD 2006 - 2007をスタートさせている。

 浜田省吾に影響を受けたという後輩アーティストは数多く、尾崎豊、スピッツ、福山雅治、桜井和寿、吉田栄作など。シングル、アルバムは共に今までに27枚をリリースし、コンサートは1976年から2007年現在まで合計1466回を記録する。テレビで名前を売るのではなく、コンサートで直接音楽を聴いてもらい、観客と接することを大切にする浜省は、真のミュージシャンと言えるでしょう。




 パン屋さんのパンまた食べたいなぁ~~~~~~~~~。

 最後にヘロバキパンの説明ですが、パン屋さんはいつも睡眠不足(パンの仕込みのためいつも睡眠時間は2~3時間)のため、僕と会う時はヘロヘロなのですが、フランスパンはバキバキッといい音を立てるので、僕の父と一緒に名づけました。


TVニュース観るたびに 子供達が巻き込まれた事件
ドアの外 すぐそこまで近づいてること感じて眠れない
嘆いてるひまなんか無い 命がけで守る
チャンピオンじゃない
リーダーでもない
妻と今日一日を 無事に過ごせたことを祈ってる
I am a father.
子供が幼く尋ねる 「何故人は殺しあうの?」
抱き寄せ 命の儚さに熱くなる胸の奥
He was so lonely in the days of youth.
He never thought of fatherhood.
But now his life is like a Merry-go-round.
迷ってる暇なんか無い 選んだ道進む
ムービースターじゃない
ロックスターでもない
明日は今日よりも 良い日になることを信じてる
I am a father.
かつて夢見る少年だったこのオレも 今ではFahter.
(ほんまにええ親父の歌ですよ。親父になった気持ちで聞いてみてください。)

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